「聖書の学びの会」 2023年11月29日
★法亢聖親牧師からのメッセージ
「人生の秋を生きる」 マタイ4章1~11節
人生周期(ライフサイクル)の生き方の一つにヒンズー教の教えがあります。
① 学生期(がくせいき) よく学び
② 家住期(かじゅうき) 家庭を持ってよく働き
③ 林住期(りんじゅうき)少しこの世を離れ
④ 隠遁期(いんとんき) 来るべき世に備える
昔の人はすでにこうした生き方に気づいていたということは素晴らしいことです。
キリスト者でスイスの医師であったポール・トゥルニエは、「人生の四季」という著書の中で人生を自然界の春、夏、秋、冬になぞらえ、それぞれ準備の時期、活動の時期、実りの時期、総括(まとめ)の時期ととらえています。
本日は、私たちに一番関係の深い人生の秋の生き方について共に学んでみたいと思います。
H・ナウエンは、ノートルダム、エール、ハーバード各大学で宗教心理学の教鞭をとりスピリチィアリティの世界的指導者として知られるカトリックの司祭です。
彼自身中年期に入り深刻な心の危機に直面しました。それは、年輪を重ねた自分がイエスにどのくらい近づけているかという内面からの問いでした。ナウエンは、この時非常に重大なことに気づいたのです。つまり、「自分は、イエスの荒野での悪魔の3つの誘惑にさらされ、その心は“燃え尽き”に向かって歩んでいる」ということでした。
イエスの時代同様悪魔は、厳然(げんぜん)として生きていて、人の心を破壊に導いていることに気づいたのです。その誘惑とは、①自分の能力を示すこと、②人の歓心を買うこと、③権力を求めること、の3つでした。 こうしてナウエンは、50歳半ばで世界的な名声や学問上高名の鑑たるハーバード大学の教授という立場を捨てて、ラルシュ共同体で生活することにしたのです。ラルシュ共同体は、同じカトリックの司祭であるジャン・バリエが創立した知的障碍者の共同体です。 このナウエンがたどった歩みは、私たちが中年から老年に向かって生きる生き方を考える時のヒントを与えてくれるもののように思います。と申しますのは、外向きの働きはどうであれ、私たちの内なる生き方がどれくらいキリスト・イエスに近づき、このお方と結びついているかは、私たちキリスト者の究極の問いに間違いないからです。
50代、60代の年代になりますと、ナウエンではありませんが、だれもが自分の人生はこれで良かったのか、いったい何をしてきたのか、これから先どういう生き方をするのか、などなどという問いかけに直面します(内面の声)。キリスト者といえども同じです。つまり、キリスト者も世俗のひとたちと変わらない価値観、方向性で生きていることが少なくないからです。宗教心理学者であり霊的指導者であり、キリストに従う道を説く祭司であるナウエンから次のことを学ぶことができるかと思います。
「人生の前半が上がる生き方であるならば、人生の後半は、段階を降りる生き方の時期という考え方です。つまり、人生の前半は、獲得上昇の時期でこの世的な価値の達成にその主眼が置かれるのに対して、後者(人生の後半)は、喪失、下降あるいは来るべき世に向かう人生態度を確定して生きる時期と言えるのではないでしょうか。
あなたが生きれば「あなたを押しのけて私は生きる」、結局このような生き方を私たちはしています。そうでもしなければ生きてゆけないとよく言われますし、確かにその生き方で獲得することは多いのです。しかし、獲得の喜びと命の喜びとは別であることに注意しましょう。獲得の中で生命は、むしろ不完全燃焼をかこっているのではないでしょうか。蝋燭が他を照らしながら自分自身は消滅してゆくように、燃焼とは本来他に仕えることなのです。「あなたが生きれば私も生きる」、これはお人良しではありません。燃焼を求める生命の訴えなのです。(「神の風景」 藤木正三著より)
構えの点検
世の中には、どうにかなることとどうにもならないことがあります。そして、どうにもならないことにどう対するかに、その人の人生に対する構えが表れるものです。どうにもならないことに抵抗するか、耐えるか、避けるか、あきらめるか、要するにそれを拒み続けるのか、それとも受け入れる、引き受け、自分の生きる道を認めるか、前者は人生を私物として固執する構えであり、後者は人生を預かり物として返上する構えです。どうにもならないことは稀(まれ)ですけれども、構えの点検だけは日頃からしておきたいものです。 (「福音はとどいていますか」藤木正三著より)
前者から気づかされることは、私たちは獲得型の人生の中で不足をこぼし、内心不安と焦りでいっぱいで、生命の不完全燃焼の中で不満と不足を嘆いている現実を生きているということではないでしょうか。つまり主イエスのことば『与えるは受くるより幸いなり』との生き方に心の目が開かされます。後者からは、人間だれしもが持つ人生の私物化、所有性から少しずつ離れていくことの必要性ということではないでしょうか。